こんにちは、ダイハツ探検隊!です。
社内で募集した隊員による記事の第3弾となる今回は、来年で生誕70周年を迎える「ミゼット」の特集です。
「ミゼットは親戚みたいなもん」
そう語ったのは、初代ミゼットのCMに出演していた大村崑さん。久しぶりに再会したミゼットのフロントをやさしく撫でながら、懐かしそうに目を細めた。
今回は大村崑さんはじめとする関係者の方のインタビューを中心に、人々の暮らしに寄り添い続けてきたミゼットの魅力を見つめていきたい。
高度経済成長期の日本を支えた、ダイハツ「ミゼット」。まだ自動車が高級品だった時代、ミゼットは小規模商店や個人事業主にとって、「働くための足」として誕生した。
そして時代を超え、そのDNAは「ミゼットⅡ」へ、さらに「ミゼットX」へと受け継がれていった。
街のヘリコプター「ミゼット」
――〔DKA型 MP型〕
皆さんは、「ミゼット」と聞いてどんなクルマを思い浮かべるだろうか。子供の頃、街を走っているのをよく見た、という人もいるだろうし、名前だけは聞いたことがある、という人もいるかもしれない。
丸みを帯びた愛嬌のあるフォルムに、どこか優しさを感じさせるペパーミントグリーンの車体。そして、ちょこんと幌を載せた小さな荷台。働くクルマでありながら、どこか人懐っこさを感じさせるその姿は、今見ても色褪せることなく、多くの人の心を惹きつけている。
ミゼット誕生の背景については、今回制作した動画でも詳しく紹介している。
ぜひ、記事とあわせてご覧いただきたい。
そして初代ミゼットには、今見ても特徴的な装備がある。それが、荷台に備え付けられた「幌」だ。
実はこの幌にも、ユーザー目線から生まれたエピソードがあった。
1957年の大阪・梅田。その夜は雨が降っていた。飲み屋街を走っていたスクーターがスリップし、荷台に積まれていたビール瓶のケースは道路へ散乱。瓶は粉々に割れてしまった。その光景を偶然目にした販売会社の社長は、こう思ったという。
「荷台に幌があれば、荷物を守れたのではないか。」
このアイデアはすぐにダイハツへ共有され、後のミゼット開発へ反映されていったそうだ。現場の困りごとに耳を傾け、それを商品へ反映する。ミゼットには、そんなダイハツのものづくりの原点が、すでに息づいていた。
こうして1957年8月に誕生したミゼットは、瞬く間に全国へ広がっていく。もちろん、時代のニーズを的確に捉えた商品力が大きかったことは言うまでもない。
しかし、その背景には全国の販売会社の存在があった。販売会社は地域に根差したネットワークを活かし、ミゼットの販売を支援。
ダイハツも、販売会社をサポートすべく、販売研修や販促支援を積極的に実施した。そうした積み重ねによって、“ミゼット旋風”は全国へ広がっていった。
そして、その最前線には、販売会社とダイハツをつなぎながら、全国を駆け回った営業スタッフの姿があった。
当時を知るダイハツOB・上田陽道さん(なんと御年92歳!)へのインタビューを通して、その時代を振り返っていきたい。
こんなオモチャ売れるんか?
上田さんが入社したのは、ダイハツ工業が創立50周年を迎えた1957年4月。研修を終え配属されたのは、自動車営業課だった。そこで上田さんは、後に人生を大きく変える存在となるミゼットと出会う。
最初ミゼットを見た時の印象は、「こんなオモチャ売れるんか?これを売らないといけないとは、大変なことになったぞ。」社内のみならず、販売会社からの評判も散々なものだったという。
しかし、その前評判から、なぜ大ヒットへつながったのか。
「昭和32年(1957年)の夏、とある牛肉店に飛び込みで営業に入ったんや。最初は断られたんやけど、“単車で行っている荷物配送をもっと楽にできる”と説明したら、店主が興味を示してくれてな。最終的に、全20店舗分のミゼットを購入してくれた。このことは今でも鮮明に覚えている。」
これが、大きな転機となった。
その後、ミゼットの“便利さ”や“使いやすさ”は、購入者たちの評判によって全国へ広まっていった。
そして販売から2か月後の1957年10月、ミゼットは爆発的に売れ始める。全国各地から、当時北浜にあったダイハツの事務所までミゼットを引き取りに来る人が現れ、自ら運転して持ち帰る姿そのものが、“走る広告”となっていった。需要は想定を大きく超え、生産が追いつかなくなった。営業だった上田さんたちも、朝早くから工場へ行き、出荷手続きを手伝うほどの状況だったという。
ある日には、北浜に展示されていたミゼットを売ってほしいと、販売会社のセールスマンと共にお客様が訪れたこともあった。しかし、実はその展示車にはエンジンが搭載されておらず、展示専用車であることを伝えると、お客様も大笑いしたという。
上田さんのダイハツ人生は、まさにミゼットと共に歩まれたものだった。その後、数多くのミゼットを販売し、社内では「ミゼット坊や」というあだ名まで付いたという。
「ミゼットの話をすると昔に戻る」上田さんはそう語りながら、青春時代を共に駆け抜けた相棒を思い出すように、微笑みながら目を細めた。
日本で最初の生CM
今のようにSNSもインターネットもない時代。商品の存在を全国へ届けるには、新聞やラジオ、そして急速に普及し始めていた“テレビ”の力が欠かせなかった。その中でも、ミゼットの名を一躍全国区へ押し上げたのが、昭和を代表する喜劇俳優・大村崑さんだった。
「ミゼット、ミゼット~♪」
軽快なフレーズと共に放映されたCMは当時大きな話題を呼び、ミゼットは“軽三輪車”という枠を超え、国民的人気を誇る存在となっていった。
では、そのCMはどのように撮影され、どのような思いで世の中へ届けられていたのか。
ミゼットのCM、実は代役やったんや
2026年4月1日。この日、ダイハツ工業では331名の新入社員を迎える入社式が行われていた。そんな春の日に、我々はダイハツ工業本社へ、大村崑さんをお招きした。
受付で大村さんを迎えたのは、「ミゼット」。大村さんは挨拶もそこそこにミゼットへ駆け寄ると、「久しぶりやなー!元気にしとったかー!」と声を掛けながら、やさしくフロントへ手を添えた。その姿は、まるで長年会っていなかった“親戚”との再会のようだった。
ミゼットとの再会によって、70年前の記憶が一気によみがえったのだろうか。大村さんは懐かしそうに当時を振り返りながら、こう切り出した。
「ミゼットのCMな、本当は、女性タレントさんが出演する予定やったんや。でも本番直前になって、緊張で倒れてしもうてな。現場はもう大騒ぎや。“どうする!?もう生放送始まるで!”って。
そんな時に脚本家から、『ほな急やけど、崑ちゃん、ササヤン、代わりに出て!』って言われたんや。そこから、知らん間に僕らがミゼットのCMをやることになったんや。」
大村さんが、ダイハツ提供のコメディ番組「やりくりアパート」 (1958年〜1960年放送)に出演していたことをご存じの方も多いだろう。番組の最後に放送されるミゼットの生CMは当時大きな話題を呼んだ。しかし、その始まりが“突然の代役”だったことを知る人は、今ではほとんどいないのではないだろうか。
今回我々は、当時放映されていた貴重な映像を入手することができた。ぜひご覧いただきたい。
「CMに台本はなかったんや。本番前にササヤンと軽く打ち合わせするくらい。でもな、掛け合いしながら“あと何秒”っていうカンペ見て、最後ピタッと終わらせなあかん。それが大変やった。」
あの軽快なやり取りが、まさか即興に近い形で行われていたとは驚きである。しかし、息の合った掛け合いの裏には、大村さんと佐々十郎さんが長年積み重ねてきた芸の力があったのだろう。
その後、大村崑さんの人気は、ミゼットと共に全国へ広がっていった。街を歩けば、子供たちから「崑ちゃん!ミゼット倒れてるで〜!」と声を掛けられることもしばしばあったという。当時の初代ミゼットは、急なカーブでは転倒してしまうこともあった。それでも人々は、どこか愛嬌のあるその姿を、身近な存在として親しんでいたのかもしれない。
ミゼットへの想い
※撮影のため、特別に乗車して撮影
大村さんは、ミゼットについてこう語ってくれた。「ミゼットは親戚みたいなもんや。会えば、“元気やったか〜、お互い頑張っとるな〜”って、そんな風に聞こえてくる。懐かしいし、うれしい。自分の人生とも、ずっと一緒に歩いてきた存在や。」
そう語りながら、再びミゼットのフロントへそっと手を添える大村さん。その表情は、かつて日本中を駆け回っていた頃の記憶を、懐かしく思い返しているようにも見えた。
70年という長い年月を経ても、人の記憶に残り続けるクルマがある。そして、そのクルマを“親戚”のように想い続ける人がいる。ミゼットは単なる乗り物ではなく、人と人、人と時代をつないできた存在なのかもしれない。